【映画感想】ザ・ロイヤル・テネンバウムズ【奇妙な奇妙な家族愛】

こんにちは。morn(モーン )です。「犬ヶ島」に引き続いてウェスアンダーソン監督の映画レビューを記事にしたいと思います。僕は「犬ヶ島」以来本当にこの監督の映画が好きになりました。なので今後もウェスアンダーソン監督の話題は記事にしたいと思います。先に言っておくと僕には映画評論なんてものは絶対に無理なので、ただただ、一人のデザイナーが映画を見て思うことを記事にするだけですが、デザインやってるやつってこう言う風に思ってるんだと、一例として楽しんでもらえたら嬉しいです。

さて、今回の記事は「ザ・ロイヤルテネンバウムズ」の感想になりますが、いまのところこの映画がウェスアンダーソン監督で一番好きな映画です。

この記事は、お話を考察するために必要な要素ですので、ネタバレをします。未見の方、ネタバレしたくない方はお気をつけください。とはいえ、多分ネタバレとかあんまり関係ない映画だと思いますので、一つの映画の見方としてご参考にしていただいても良いかと思います。

あらすじ

この映画に出てくるロイヤルテネンバウム家の面々はみんな欠落してます。3人の子供がいて、(うち一人は養子)子供たちは、その欠落故に、それぞれ素晴らしい才能があったりするのですが、家族みんなが欠落しているため、補い合う事ができずに、これまた欠落しているため失敗して屈折した年のとり方をします。一番ぶっとんでいるのが親父のテネンバウムで、子供たちが小さいうちに嫁と喧嘩して家を出て、さんざん自分勝手に家族をほったらかしにしたあげく、子供たちが大人になった十数年後、いい歳こいて嫁(離婚すらせずにほったらかしてます)の再婚を知って嫉妬で家に戻ってくると言うどの面下げてきやがったと言う展開で映画は展開していきます。当然子供たちが苦しんで歳を重ねる間、この親父は家にいたわけではないので、暖かく迎えるわけはないのですが。。

この家族、どこにも大人がいない

親父のテネンバウムを筆頭に、この家族は誰一人、大人になってません。子供ができていても、結婚していても、経済的には自立していても、誰一人本当の意味で親からの自立を成し遂げていません。みんな心が10代の思春期です。しかし、嫁の再婚に嫉妬して戻ってきた親父がきっかけで、変化が訪れ始めます。

個性的な家族の面々

・ロイヤル・テネンバウム

一家の長で、前述の通り相当なパンク野郎です。元法律学者で破産しています。家を出て召使のパゴダとともに宿なしの暮らしをしています。相当ダメダメなんですが、なぜかどっしりとした余裕があり、色気があります。人に迷惑かけてばっかりなんですが、なぜか許されるし、愛される人。この人はそう言う典型みたいな人です。ずっと少年みたいな心がありながら、どこかダンディ。金があったときのものなんでしょうか?服がいつもオシャレ。

・エセル・テネンバウム

ロイヤルの妻で考古学者です。ロイヤルが家を出た後一人で3人の子供を育てて、天才児として一時もてはやされた時にその母親として注目された時もあったみたいですが、その後子供たちへの注目は沈下、穏やかに日々を過ごしているようです。子供たちが大人になり切れていないことに「子育てに失敗したみたい」とロイヤルにこぼすなど、親としての自分に少し自信を持てない様子。会計士のヘンリー・シャーマンという黒人の老紳士に求婚され、まんざらでもない様子。

・チャス・テネンバウム

天然パーマの長男です。幼い頃から起業の才能を発揮していましたが、結婚して妻を飛行機事故で亡くし、それ以来残された子供達(全員天パ)と自主的に避難訓練をしながら妻の死を乗り越えられずに日々暮らしています。自分の仕事の財産をロイヤルに横取りされそうになったり、家族で遊んでいておもちゃの銃でロイヤルに打たれて弾が体に残ったり、一番ロイヤルを憎んでいます。ずっと赤ジャージ。

・マーゴ・テネンバウム

長女で養子。劇作家として幼くして才能を発揮しますが、作品をあまり書かなくなります。精神学者のラレイ・シンクレアと結婚して暮らしていますが、不倫しまくってます。喫煙者ですが、そのことを誰にも明かしていません。指が一本ありません。ロイヤルには自分の劇を馬鹿にされたり、あまりいい関係ではない様子。ヘアピンにボーダーシャツ。

・リッチー・テネンバウム

次男。テニスプレイヤーとして幼くして才能を発揮していたのですが、彼の中にある「開放されない悩み」が原因で次第に引退。その後は船で放浪している様子で、ヒゲモジャ、長髪にバンダナ。バンダナは子供の時からずっとつけてるようです。彼にかぎっては、特別ロイヤルに憎い感情はない様子で、比較的快くロイヤルを受け入れているような気がします。というか「そんなこと考えてる場合じゃない」くらい別の悩みに囚われています。子供の頃からずっと作家のイーライ・キャッシュと仲良し。

そもそも信じるかね?嘘ついて帰ってきた親父

ウェスアンダーソン監督の映画って、「犬ヶ島」の感想でも書いたんですが、とんでもない速さで極悪人が改心しちゃったり話はぶっちゃけ特にそんなに面白くないんですよね。この映画も「余命短い癌に侵された」というロイヤルの嫁と家族を取り返そうとする嘘でバラバラに住んでた家族がいとも簡単に信じ切って戻ってきます(チャスは自分で実家に帰ってきた)。いい人ですよね、基本みんな。
とはいえ映画なんで、そこまでは都合よくても、一癖も二癖もある登場人物たちですから、一筋縄ではいきません。当然チャスに「子供には合わせない!」と言われたり、嘘がばれて追い出されたりします。しかもかわいそうなことに追い出されたロイヤルは召使にイラつかれて刺されます。が、死にもしませんし、刺した本人が部屋で消毒してる始末。ロイヤルも「もうすんなよ」ぐらいで済ませます。優しすぎませんか?いいのかそれで。こういうふうに、設定が「学者」だったりするのにあんまり賢いとは思えない行動をとったり(成功者で幸せだから凡人の僕みたいに怒ったりすることとは次元が違うんですかね)、とてつもなくあっさりした描写で終わったりするのはウェスアンダーソンの「スカし」なんでしょうね。だからこそ病んでいる人間たちをこんなにも愛らしく描けるのかもしれません。

深刻に病んでる子供たち(でも意外とあっさりしてる)

チャスは前述の通り、妻を事故で亡くして、親父の愛を感じられずに、自分と子供たち(と犬)の世界で塞ぎ込んでます。子供たちだけが自分の血を引いた証なので、それ以外の世界に心が開けないでいます。彼が欲しかったのは、何の特別でもない両親二人からの愛だったんでしょう。得られなかった愛を家庭を作ることで満たそうとした挙句事故でぶっ壊されて頭がイかれてしまっています。

マーゴは結婚していながらも不倫しまくります。養女なので、元々家族だというよりかは「よそ者」と思っている節があります。戻ってきたロイヤルに「嫁の再婚相手は父親じゃないぞ、他人だ」と言われても、「あんたも他人でしょ」と言い放ちます。彼女は確実に愛を感じられなかった心の穴をずっと埋めようと様々な男性と関係を持ちます。彼女は家族としての愛が欲しかったのです。ただし、本当に欲しかったその愛はあまり世間に言えない形でした。それは、リッチーを異性としても魅力に感じているということでした。それを満たせず、最終的にはリッチーの友人イーライとも関係を持ってしまいます。

リッチーもなにを隠そうマーゴを愛していました。だけどもやはり打ち明けることはできずに、ずっとずっと密かに愛し続け、マーゴが精神科医と結婚してしまった時には精神崩壊して、テニスどころじゃなくなってしまいました。しかもイーライと不倫していることを知って、完全に絶望してマーゴの旦那の家で髪と髭を剃り、自殺未遂します。

めちゃくちゃな親父自身にも変化が。

ロイヤルは嘘をついて家族と一緒に暮らした数日間が「人生で最高の日々」だったことに、自分自身でも驚きます。追い出された後は、ただの嫉妬で家族に近づいたはずが、自分が家族に戻ることよりも今までの自分の行動を謝罪して、それぞれの残された家族の幸せを願うように気持ちが変化したようでした。

リッチーの自殺を聞きつけたロイヤルは、入院した病院に召使と駆けつけますが、面会拒否されます。
病院を去ろうとすると、そこにバスに乗ろうとするリッチーがいました。声をかけても無言でバスに乗ってしまうリッチーでしたが、死のうとした割には元気そうだと言って、どこか安心したようです。

子供たちにも変化が。

リッチーがバスに乗って行き着いたのは実家の自分の部屋でした。そこではテントを張って過ごしていたのですが、誰もいないはずの部屋のテントに、マーゴがいて、音楽を聞いていました。
ここで二人は許されない二人の愛を確かめ合います。イーライと関係を持ったのも、リッチーと近づきたいあまり、距離の近かったイーライに気持ちが入ってしまったのが原因でした。

「この愛は誰にも打ち明けずに終わったほうがいい」とマーゴはテントを出ます。
リッチーの頭にはバンダナはもうありません。

ちゃんと愛された子供は、ちゃんと自立する

ロイヤルはエレベーターボーイとして生活を始めていましたが、そこにリッチーがやってきます。そこで「僕はマーゴを愛していた。」と打ち明けます。ロイヤルは困惑しながらも「まぁ、かわいいしな」といってリッチーの気持ちを認めます。
リッチーはそのあとイーライに会いに行って、麻薬で頭がいかれた彼に「君を救いたい」と告げます。彼は自分の気持ちにけりを付け、成長したのです。

リッチーの話を聞いたロイヤルは、マーゴに会って、リッチーとのことを話そうとします。最初は突き放す態度をしていたマーゴですが、ロイヤルの純粋に力になりたいという気持ちを感じ取り、話に応じます。彼女も自分自身の問題と腰を据えて向き合う態度になったのです。

ロイヤルは自分から嫁に離婚届を差し出し、再婚を祝います。その後の結婚式では、末期症状になっているイーライが式を行う家に車で突っ込んで、チャスの犬を轢き殺します。そばにいたロイヤルが子供たちを庇ったため、子供は事故から免れたことを知ったチャスは、すぐに代わりの犬をプレゼントしてきたロイヤルに、「とっても今まで辛かったんだ・・・」と、いままでつっぱねていた気持ちを正直に告げ、ロイヤルも「わかってるよ」と肩を叩きます。
えらい簡単に和解します。
ここはいつものウェスアンダーソン 節です。チャスはこれをきっかけに解放され、自分の子供と一緒にロイヤルと遊んだりできるまでになります。最終的にロイヤルが心臓麻痺で死ぬ時に側にいたのは、長男であるチャスでした。

話の語りはあっさり(すぎる)ながらも、伝えていることは至極真っ当なことです。それは、
ちゃんと愛された子供は、ちゃんと自立するということです。

子供たちは経済的には不自由なく、なんでも買い与えられて育ったはずですが、未熟なままで、自立もできていませんでした。ちゃんと愛すこと以外は蛇足だということです。
そして親も子供の成長とともに一緒に成長するのです。

ロイヤルが死んだ墓には「沈んだ船(家族)を救う」と書かれていました。
彼は自分たちの父親だと認められたのです。

アニメを撮るのも納得

ここまではあらすじを追って自分の考察を交えて記事を進めてきましたが、前述したように、ウェスアンダーソンはストーリーをハラハラしながら楽しむタイプの映画を撮る監督では、やっぱりないです。
あらすじは非常にドラマティックですが、実際に映画を見ている間はそんなにシリアスでもドラマティックでもありません。淡々と、「象徴的」に「登場人物たち」が行動していきます。
様式美というか、「作り話感」をあえてだして、「童話」のようにお話が進みます。
登場人物の衣装にもそれがわかります。記号的に作ってあるんです。「天然パーマに赤ジャージ(葬式は黒ジャージ(笑)」「ヘアピンにボーダー服(美人女優さんじゃなかったら本当に年考えろよと思うような年齢錯誤の見た目)、指が一本ない」「ヒッピーみたいに髭と髪伸ばし放題にバンダナにサングラス、成長後は丸坊主」のように、精神的に大人ではない事が、まるで漫画のようにわかりやすいスタイリング、設定。
常に構図がシンメトリックだったり、固定された絵。
出てくる場所がどこもかしこも色使いや衣装が「不自然に」抜群に設計されています。
そう、これは現代の家族の問題を題材にした「御伽噺」なんですよね。
作り方が「アニメ」にも近いので、監督がストップモーションアニメをつくる理由がわかりました。
実写作品を見る前は、「いろいろやりたい人」ぐらいに思っていたんですが、この人はアニメも実写も地続きの人ですね。

えぐい話を、ここまで能天気に、ポップに。

音楽もとってもいい感じの選曲をしますよねーー。。ヴェルベットアンダーグラウンドで見た目からは想像できない低音の歌声で度肝を抜かれた、ニコの楽曲とかつかってて、またこれが映画とマッチしてるんですよね。ウェスアンダーソン にはこういう「見せ方」の工夫に感心させられます。淡々とした語り口なのに、ここまで繊細な話なのに、何回も見てしまうのは、見せ方の巧みさがやっぱりあると思います。引き立たせる素材選びが、色選びが、陳腐ですがオシャレなんです。登場人物を記号的に扱うあたりも、「複雑なことをわかりやすいルックにしてユーザーを惹きつける」という、デザインをしていて常に考えることを可憐にやってみせる監督が僕は好きです。難しいことを難しく語ったり、エグいことをドロドロに語ることは結構簡単に見えてしまいますしね。見た目の作り方は当たり前に参考になるっちゃなるのですが、それ以前の、なぜこういう色か、衣装か、音楽か、がしっかり筋があってコーディネートしているあたりが個人的には参考になりました。見た目以前のことがウェスアンダーソンには惹きつけられます。前述したように、マーゴが「いい歳してるのに十代の格好をしている」ということがさほど気にならず、(俺だけかな?)むしろ魅力的に(俺だけ?)、話をわかりやすく引き立てているのは、やっぱりウェスアンダーソンの才能恐るべしと思ってしまいます。

単純に役者がいい

役者がそもそもいいです。チャス役のベンスティラーはあんまり得意ではないですが、背がちっちゃいあたり、頼りない長男感が抜群でしたし、マーゴ役のグウェネスパルトローは、アイアンマンでしか見たことなかったですが「ややこしい美人」が見事にはまってたし、なによりロイヤル役のジーンハックマンはダンディでしたねー。

残念なところ

実はないです。残念なところが僕にとっては愛すべきポイントになってます。
でもそれはファン目線の話なので、おそらく受け入れられないポイントで言うと

・そもそもこのオシャレ感がいけすかない(「わかる人」じゃないとダメみたいな雰囲気はあります)

・指が一本ないとか、そういう小細工が鼻に触る(僕も指がないとかは明確に理由がいまだにわかりません)

・純粋に登場人物たちが人として嫌、感情移入できない(これは本当に感じる人には特に感じると思います。)

・話がつまらない(登場人物が嫌だとここはもう絶望的ですね)

・都合良すぎる。人としての葛藤がない。

・結局みんな底抜けにいい人

・笑いが小寒い(これは合わない人だったら終始そうだと思います。小劇団の笑いみたいなのに偏見がある方は特に。)

要するに、「人間だろうがよ!もっと泣いて怒って叫んでもがけコノヤロー」と思う方がいると思われます。でもウェスアンダーソンは黒澤明が好きみたいなんです。黒澤明は「リアリティ」「ヒューマニズム」の人(当たってなかったらごめんなさい)、少なくとも芸術家になっちゃう晩年以前は血湧き肉躍るエンターテイメントの人だったわけで、そういうのをわかっていながら、この映画を撮っています。「あえて。」です。その「あえて。」がきつい方はやっぱり終始きついかと。

とはいえ、学者だったりなんだりして終始裕福(エレベーターボーイになってもまったく貧乏感がない)な登場人物の側面には僕も全く共感できません。そこは僕も肯定的ではないです。ウェスアンダーソン の作品の登場人物には、僕が見た数本の限りでは、全員「金の悩みがなさそう」です。どんな家庭であれ。なんで、映画のテーマ自体が言ってしまえば「んなくだらねえことどうでもいいわ。明日も働かなきゃ。」で済むような悩みっちゃ悩みなんですけどね。登場人物がみんな現代病とも言えます。
とはいえヘヴィーではあるし、無視できない問題であるところが、監督作品が観客の手を引っ張る部分でもあるかと。

結論:ヘンテコ映画。でも、普遍的な家族の話。

「犬ヶ島」のように、やっぱり人を選ぶ変な映画です。ただ、ハマると、登場人物みんなが愛しくなります。そんな映画です。でも僕自身はそういった「変なもの好き」「通な人」というよりは、普通に家族のことで悩んだことある人が見てみたらいいんじゃないかなと思います。「こんな都合いいわけないだろっ」って思う方もいると思いますが、それは僕も同じです。でも、おそらくどの家庭にも当てはまるっちゃ当てはまるし、こんなにうまくいかずに、むしろ離れたまんまの人もいると思いますが、そんな人にも、「家族って一筋縄じゃないよね」って事を映画が鑑賞するあなたに語りかけてくれると思うので、見ても損はないと思いますよ。

またウェスアンダーソンの映画に関しては記事にします。次は「天才マックスの世界」かな〜。

それでは。

u-nextでも見れるみたいですよー(はっきり宣伝)。



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